「えっ、結局別れたん!?」
西陣記念病院の女子更衣室で、同僚の美咲が声を荒げる。
「うん。最近よく家に来てたんだけど、家事も料理も私に任せっきりでさー。休みの日も何もしてくれないから、疲れちゃった」
「あー、それはキツいなー。そやけど、結婚する前に分かってよかったわぁ」
そのとき、更衣室のドアが勢いよく開き、先輩が慌てた様子で入ってきた。
「ごめんなぁ、日勤の人が一人熱出してしもて。佐伯さん、悪いんやけど、手伝いに入ってもらえへんやろか」
「あ、はい!」
夜勤明けの申し送りを終えた直後だったものの、
その時は反射的にそう答えた。だがその後、私はすぐに後悔することになる。
鳴り止まぬナースコール。相次ぐ急変。人手が足りず、帰るタイミングが全くない。
そのまま結局、夕方まで手伝う羽目になった。
ぼんやりした頭で、壁に掛かった時計を見上げる。夜勤で出勤してからほぼ丸一日経っていた。いったい何時間勤務したのか。……考えたくない。間違いなく、これまで生きてきた中で一番疲れた。
「佐伯さん、ほんまにごめんなー。ゆっくり休んで」
「お疲れさまでした……」
フラフラと病院を出て、帰路に着いた。バスに乗って、地下鉄に乗り換えて、いつもの駅で降りる。途中眠りかけたが、今寝たら絶対に寝過ごしてしまうと思い、なんとか堪えた。
明日が休みなのが幸いだった。帰ったらすぐに寝よう。
それにしても、最近すっかり日が短くなった。秋になる度、毎年そう感じる。今年もやはり、例外ではなかった。
私は昔から、暗い道を歩く時に物陰から何か現れるんじゃないかと少し不安に思っていた。物音がしないかどうか、耳をそばだてながら足早で歩く。
すると、道の片隅にうずくまる人影のようなものが視界に入った。心臓が跳ねる。一度は、そのまま通り過ぎた。けれど、もし急病人だったら? なんだか気になってしまい、来た道を戻った。
歩きながら目を凝らして見ると、やはり人が俯いたまま座り込んでいた。黒っぽい布を、まるでマントのように体に巻きつけている。
酔っ払いだろうか。でもここは繁華街でもないし、体調不良かもしれない。
すぐ側まで近づいた時。その人はこちらの気配に気づいたようにパッと顔を上げる。目が、ぱちっと合った。
黒っぽい癖っ毛にまん丸い目の男の子……いや、青年だろうか。どことなく小動物を思わせる容姿でめちゃくちゃかわいい。
「血を寄越せ」
今日はすごく疲れている。だからだろうか。今、目の前の青年に血を寄越せと言われた気がした。今日は疲れてるし。うん、きっと聞き間違いだ。
「立てますか? 手を貸しますよ」
手を差し出すと腕を掴まれ、そのまま強く腕を引かれた。
青年の顔が私の首筋に寄せられる。
え……これってもしかして噛まれそうになってる? まさか、吸血鬼とか……? 血を寄越せって、本当に言ってた?
「……ダメ!」
強く言って青年の胸を押すと、そのまま後ろに倒れて尻餅をついた。きょとんとした顔でこちらを見上げてくる。
「ダメだよ。直接噛んで血を吸うなんて。衛生的に問題ありすぎるでしょ」
「え……」
青年はひどく傷ついたような顔をした。それから、視線を落とす。切なそうに眉をひそめ、ぽつりと呟いた。
「……お腹空いた」
青年のあまりにもしょんぼりした姿は、私の庇護欲をとてつもなく掻き立てた。
あーもう。腹減ってんのか。疲れてるし、色々考えるの面倒くさい。とりあえず保護だ。
「……仕方ないなぁ。うちすぐそこだから。ついて来れる?」
青年はその場でよろよろと立ち上がった。どうやら空腹なだけで、怪我などはないようだ。私がゆっくり歩くと、そのまま後ろをついてきた。
少し歩くと、自宅のアパートの前に到着した。中に入って階段を上がり、部屋の鍵を開ける。
リビングへ繋がるドアを開けると、玄関の明かりに照らされて、脱ぎっぱなしの服やらテーブルに出しっぱなしの食器などが散乱する惨状が、目に飛び込んできた。
先日彼氏と別れてからというもの、すっかり油断して部屋の片付けをおろそかにしていたのだ。これは、少し気まずい。
後ろを見ると、青年はその場に立ち尽くしたまま固まっている。さすがに引かれたかも。
ここまで来て隠すのは無理だ。私は観念してリビングの明かりをつける。すると、青年は驚いたように腕で目の上を覆った。眩しくて驚いたみたい。
明かりの下で、青年の姿を観察する。黒っぽい癖っ毛に赤銅色の瞳。耳の先が少し尖っていて、黒いマントのような布を体に纏ってる。背は、私と同じくらいに見えた。……こうしてよく見ると、人とはどこか違う雰囲気のように感じられる。血が欲しいということは、やはり吸血鬼とかなんだろうか。
私はスマホを取り出してAmazonのアプリを立ち上げる。医療用の採血キットをカートに入れて決済した。
病院でも使っている採血用の翼状針なら、自分でも扱える。
「注射器を注文したよ。明日には届くみたいだから、届いたらあげるね。それまで待てる?」
吸血鬼くんは、眩しそうに目を細めながらこくりと頷いた。
……眩しいのが苦手なのか。私はリモコンを操作して、リビングの明かりを常夜灯にしてあげた。
「……血の他に何か食べられるものは? プリンなら冷蔵庫にあるけど」
「ぷりん?」
冷蔵庫を開けて、中からプリンを取り出す。引き出しからスプーンも出して、蓋開けてから渡した。
「これ。食べていいよ」
吸血鬼くんは、おずおずとスプーンでプリンをすくうと、一口食べた。目を大きく見開く。そのまま、ペロリと完食した。
「どう? これで少しは紛れた?」
吸血鬼くんは、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「いや、これでは腹は膨れぬ」
「そっか……」
とても残念だ。そして、疲労も限界だった。
「……とにかく、明日届くから。悪いけどそれまで我慢して。私は寝るね」
私は吸血鬼くんをリビングに残し、寝室に向かう。
メイク落としシートでメイクを落とし、ベッドに置いてあった部屋着に着替えるとそのままベッドに倒れ込む。……疲れた。そのまま意識を失った。
目が覚めると、日が高く登っていた。帰ってきてすぐに寝たから、十二時間以上寝たかもしれない。寝過ぎて頭が痛い。
そして、ぼんやりと思い出す。昨日、吸血鬼みたいな青年を拾わなかっただろうか。しかも疲れすぎてていて、かなり適当に対応をした気がする。
部屋の戸を開けてリビングを覗く。でも、誰もいなかった。……あれ?
キッチンもトイレもお風呂場も見たけど、どこにもいなかった。夢でも見ていたんだろうか。
シャワーを浴びようと思い、着替えを出すのにクローゼットを開けた。
するとクローゼットの床に、布にくるまって吸血鬼くんが寝ていた。
「きゃああああああ!?」
吸血鬼くんは私の悲鳴にビクッとして、迷惑そうに身じろぎをすると、目を開けた。
「……一体何なのだ。騒々しいぞ」
「いや、だって、いないと思ったから」
「お主がここで待つように言ったのだろう……」
欠伸をしながらそう言った。
「……何でこんなところで寝てるの?」
「暗くて狭いところの方が落ち着くのだ」
なるほど。そう言われてみると確かに、吸血鬼は棺桶に寝てた気がする。たぶん、そういうことなんだろう。
私は着替えを取り出すと、そっとクローゼットの扉を閉めた。
そのままリビングを経由して脱衣所に向かったのだが、途中で違和感を覚えた。なんだか、いつもより歩きやすいような。
「……え?」
脱ぎ散らかしていた服がきれいに畳まれ、シンクに溜まっていた食器は洗われている。
……もしかして、やってくれたの?
持っていた着替えがするりと手から滑り落ちた。
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