私は同じゲームを1300時間遊んだことがある。
何周したかは覚えていない。
そのゲームは、ファイアーエムブレム風花雪月だった。
多くの人は好きなキャラクターや好きなルートについて語る。
もちろん私にも推しはいた。
だが、今振り返ると、私が脳を焼かれていたのはキャラクターではなく、世界そのものだった。
同じ出来事なのに、視点を変えると見え方が変わる。
ある人物は英雄になり、別の視点では加害者になる。
正義だと思っていた行動が、別の立場から見ると暴力になる。
ルートを変えるたびに世界の意味が変わる。
私はその箱庭に脳を焼かれていた。
続編が発表されたとき、私は発狂した。
そして、それまで脳内に溜め込んでいた考察を吐き出し始めた。
最初はただの感想だった。
だが気づけば、「なぜ私はこんなに考え続けているのだろう」という疑問を抱いていた。
作品はとっくに終わっている。
エンディングも見た。
なのに私はまだ考えている。
なぜだ。
そのとき思い当たったことがある。
私は「余白」のある物語が好きなのだ。
その余白のある物語のひとつが「成立しない関係」だ。
たとえば、恋愛がテーマの作品で恋が成就すると、物語は閉じる。
結婚した。付き合った。めでたしめでたし。
もちろん、それも素晴らしい。
だが、成立しない関係では閉じない。
この先どうなったのだろう。
本当は何を思っていたのだろう。
もし別の選択をしていたら。
読者の脳内で物語が続き始める。
考え続ける。
解釈し続ける。
そして、誰かに話したくなる。
「脳を焼かれた作品」の読者は、だいたい長文感想を書く。
考察を書く。
人に勧める。
頭の中に留めておけなくなる。
作品を消費する側から、作品を観測する側へ変わる。
ここまで書いていて、ひとつ気づいた。
もしかすると私は、成立しない関係が好きなのではなく、読者が考え続ける状態が好きなのかもしれない。
だから私は、視点によって見え方が変わる世界を書こうとする。
解釈の余白を残そうとする。
再読すると意味が変わる伏線を置こうとする。
そして今、私は長編小説を書いている。
表向きは物語だ。
だが、この記事を書いていて思った。
私はもしかすると創作をしているのではなく、実験をしているのかもしれない。
風花雪月で自分に起きた現象は、別の作品でも再現できるのか。
人はどんなときにループするのか。
どんな関係性に脳を焼かれるのか。
私は今も観測している。
まず自分を被験者にして。
そして、その先にいる読者を観測しながら。
続編発表をきっかけに考察を書き始めた。
あの頃は、自分が風花雪月を分析しているのだと思っていた。
今思えば違う。
私は風花雪月を使って、自分が何に脳を焼かれる人間なのかを分析していた。
私は成立しない関係を書きたいわけではない。
読者にループしてほしいのだ。
そのための手段として、成立しない関係を書き、解釈の余白を残し、多視点の構造を作り、再読で意味が変わる伏線を置いている。
つまり私は今、風花雪月で自分に起きた現象を、小説で再現しようとしているのだ。
私は成立しない関係を書きたいわけではない。
多視点を作りたいわけでもない。
伏線を張りたいわけでもない。
読者にループしてほしいのだ。
作品を読み終えたあとも考え続けてほしい。
解釈し続けてほしい。
誰かに話したくなってほしい。
私が風花雪月で1300時間失ったように。
あれはたぶん、創作ではない。
再現実験なのだ。


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