人は“考えさせられる作品”が好きなのではない。“繋がる快感”が好きなのだ ──認知負荷の話

冬槻ぱきら

なんかこれ、読んでて疲れるな……

でも不思議なことに、情報量が多い作品が全部読みにくいわけではない。

むしろ私は、考察が必要な作品や、複雑な構造の作品は大好物だ。

では、何に疲れているのか。

「認知負荷が高い作品」は悪なのか。

たぶん、そう単純ではない。

伏線が繋がった瞬間とか、違和感の意味が後から反転する瞬間とか、あえて説明されなかった感情が後から立ち上がってくる感じとか。

ああいう、“脳が勝手に接続を始める感覚”にはかなり快感がある。

でも一方で、読んでいて脱落する作品もある。

その差は何か。

たぶん私は、「情報量」そのものに疲れているわけではない。

疲れるのは、「何を追えばいいのかわからなくなる時」だ。

たとえば、用語は意外と流せる。

世界観も、後から補完できるならそこまで困らない。

でも、人物識別だけはかなり致命的だ。

初手から登場人物が大量に出てくる。

長いカタカナ名が続く。

似た名前が並ぶ。

さらに、西洋風の名前と和風名詞が混在する。

こうなると、脳内で「誰が誰か」の整理が追いつかなくなる。

すると今度は、ストーリー以前に、

「今、誰が何をしているのか」

を追跡できなくなる。

これはかなりキツい。

あと個人的に苦しいのが、「何を見せたいシーンなのかわからない」時。

関係性を動かしたいのか。

設定を見せたいのか。

伏線なのか。

感情なのか。

そこが曖昧なまま進むと、読者側の脳は、「今どこに注意を向ければいいのか」がわからなくなる。

あと、設定や行動に違和感が積み重なる作品もかなり疲れる。

「いや、なんで?」

「さっきと言ってること違わない?」

「その行動する?」

みたいなツッコミが脳内で発生し続けるからだ。

本来、物語を追うために使うはずだった脳のリソースが、“違和感の処理”に吸われていく。

認知負荷って、単純に「難しい」ことではないのだと思う。

むしろ問題なのは、

“脳の使わせ方が整理されていない”

ことだ。

たとえば私は、感情の余白はかなり好きだ。

全部説明されなくてもいい。

むしろ、説明されないことで立ち上がる感情や関係性もある。

でもその一方で、人物識別やシーンの役割みたいな、“土台”は固定されていてほしい。

誰が誰なのか。

この場面は何なのか。

今何を読まされているのか。

そこが曖昧だと、読者の脳は「楽しむ」以前に迷子になる。

逆に言うと、多少ノイズがあっても、構造そのものが面白い作品は読めてしまう。

伏線が滲んでいる。

関係性に違和感がある。

後で何か繋がりそうな気配がある。

そういう作品は、「もっと読みたい」が勝つ。

つまり人は、“考えさせられる作品”が好きなのではない。

“繋がる快感”が好きなのだ。

だから認知負荷というのは、単に減らせばいいというわけではない。

大事なのは、

  • 読者に何を保持させるのか
  • どこへ注意を向けさせるのか
  • その処理に対して、ちゃんと報酬が返ってくるのか

なのだと思う。

読者は、迷子になりたいわけではない。

でも、「繋がる」ためなら、かなり深いところまで潜っていける。

脳が焼けたら、そっと押してください

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この記事を書いた人

関係性オタク。
成立しない関係を、成立させてしまう物語。
救いより納得。
読むと、脳が焼けます。
構造分析×一次創作
添削・相談もやってます。

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