※この記事は、日本神話を史実として扱うものではなく、一つの仮説として読む考察です。
世界には、不思議なくらい洪水神話が多い。
有名なものでは、旧約聖書のノアの方舟がある。
世界を覆う大洪水から人々が生き延び、新しい時代が始まる物語だ。
ほかにも、海に沈んだ都や、大洪水を語る伝承は世界各地に残されている。
もちろん、それぞれが同じ出来事を語っているわけではない。
それでも、「世界が水に覆われる」というモチーフが、これほど多くの地域で語り継がれていることには、どこか人類共通の記憶のようなものを感じてしまう。
だから私は、日本神話でも似たような物語が始まるのだと思っていた。
でも、違った。
日本神話が最初に語るのは、逃げることでも、生き延びることでもない。
海の上に、島を生む物語だった。
私は、その場面を読むたびに不思議な感覚を覚えた。
世界の始まりなのに、なぜ最初にあるのは海なのだろう。
その場面を読んだとき、頭に浮かぶのはいつも同じ映像だった。
荒れ狂う海ではなく、凪いだ海。
まるでそれは、すべてが終わった後のような光景だった。
――そうか。私には、すべてが終わった後のように見えていたのだ。
波はもう荒れていない。
風もほとんど吹いていない。
あれほど猛威を振るった海が、何事もなかったかのように静まり返っている。
家はない。
村もない。
田畑もない。
すべてを飲み込んだ海だけが、どこまでも広がっている。
その静けさの中で、生き残った人々だけが海を見つめている。
その瞬間、私には日本神話が「世界の始まり」ではなく、「世界が終わったあとの景色」に見えるようになった。
もちろん、これが史実だと言いたいわけではない。
日本神話が実際の災害を記録したものだ、と主張したいわけでもない。
これは、神話を読んでいて私の中に浮かんだ、一つの仮説だ。
もし、この土地で何度も大きな災害を経験した人々の記憶や、生き延びるための知恵が、長い時間をかけて物語へ染み込んでいったのだとしたら。
この神話は、少し違う姿で見えてくる。
私の頭に残った、海しかない世界。
『国史教科書』に載っていた現代語訳には、こう書かれていた。
このとき、大地はまだ若く、水に浮く脂のようで、海にクラゲが漂っているようでした。
私はこの一節を読んで、「世界の始まり」ではなく、「すべてが終わったあとの静けさ」のように感じた。
そうすると、「国生み」という言葉も別の意味に思えてくる。
最初は言葉通り、海から島が生まれる場面として読んでいた。
でも今は、そうは思っていない。
「ここなら生きていける」と思える場所を見つける。
人が集まり、住み、畑を耕し、子どもが生まれる。
暮らしが根付き、その土地が人間の世界になる。
その営みを「国生み」と呼んだのではないだろうか。
世界そのものを創造したのではない。
人々の世界を、もう一度つくり始めた。
国を一度に完成させるのではなく、島を一つずつ生み、世界を少しずつ広げていく。
だから私は、日本神話を読んでいて「何度もやり直している」という印象を受けたのかもしれない。
また同じ災害に遭いたくない。
子どもたちには、同じ景色を見せたくない。
だから、安全な場所を探し、少しずつ暮らせる土地を広げていく。
もし神話が残したかったものがあるとすれば、それは「島が生まれた」という出来事ではなく、「どう始め直すか」という行動原理だったのではないだろうか。
私たちは「国生み」を、島が生まれた物語として読んできた。
でも、もし本当に生まれたのが島ではなく、人々の暮らしだったとしたら。
日本神話は、世界の始まりを語る物語ではなく、世界を始め直すための物語として読むこともできるのかもしれない。
そんな景色が、私には見えた。
参考資料
『古事記』(現代語訳)
※この記事では、この『国史教科書』に掲載されている現代語訳の『古事記』を参考にしています。

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