先日、小説を読んで感想を述べる、いわゆる“感想サービス”について書かれたあるnoteを読んだ。
そのnoteを書いたのはとある作家で、ココナラで小説の感想サービスを提供している。
だが、事前に方向をすり合わせていたにもかかわらず5段階評価中の⭐︎3をつけられてしまい、非常に憤慨していた。
「率直な感想を書きます」
「事前に言って欲しい感想の方向性があれば伝えてください」
「必要なら改善点も言います」
「こちらは最初に方向性を伺っているので、低評価をつけるのはやめてください」
いやいやいや。
それ、あんたが高評価ほしいだけだろwww
高評価してもらいたい作者に寄り添う風を装いながら、自分のことも高く評価してもらいたい。
しかも、それを固定しようとしている。
“作家”という肩書きが、「自分を安心させてくれる感想」に価値を与えている側面もあるのかもしれない。
だが私からすれば、お互いに傷つかないよう慎重に触り合っているように見えた。
しかも、有料である。
果たして、こんなサービスに意味はあるのだろうか?
冬槻ぱきらお互いに顔色伺いながら高評価つけ合うこの構図、
つい笑ってしまうね!
しかも⭐︎3て。
良くも悪くもなく普通だったってことなんじゃないの?
必ず⭐︎5が欲しいなら、それも商品説明欄に書いておけ!
でも、途中で気づいた。
これ、感想サービス出品者だけの話じゃない。
創作界隈、多分みんなこれをやっている。
「率直な感想がほしい」と言いながら、本当に欲しいのは“安心できる温度の感想”だったりする。
だから、あまり刺さらなかった時の扱いが難しい。
私自身を例にするなら、刺さらなかった作品は静かにスルーすることが多い。
わざわざ作者を傷つける必要もないし、単に自分の好みじゃなかっただけで、他の誰かには刺さるかもしれないからだ。
読んでほしい、感想を欲しいと言われた作品なら、オブラートには包む。
逆に、面白かった作品は普通に褒めるし、刺さった作品にはテンション高くコメントを連打する。
脳が焼けているから。
だから私は、感想そのものより、「熱量」を見ているのかもしれない。
そして最近、私は感想よりPVを信用している。
特に、静かに伸びるPVとか、一気読みの反応とか。
義理感想には、どうしても人間関係のフィルターが入る。
でもPVは、少なくとも「読まれた」という事実だけは残る。
もちろん、数字はいくらでも演出できる。
営業が強ければフォロワーも増えるし、相互文化の中では感想も飛び交う。
でも、無言で読まれる作品には、また別のリアリティがある。
「あ、没入してるな」
という感覚。
私はたぶん、作品を評価したいわけではない。
見たいのは、人間の脳がどう反応したかだ。
どこで止まり、
どこで読み進め、
どこで焼け、
どこで静かに離脱したのか。
感想文化から少しズレている自覚はある。
でもそのズレのおかげで、私は「作品の良し悪し」より、「読者反応の構造」を観測できている。
義理感想は、脳を焼かない。
焼けた時、人は勝手に喋り出す。











コメント