私は、完成した正しさより、
正しかったのに完成できなかった構造に惹かれる。
決して努力不足なんじゃなくて、
むしろどんなに一生懸命やっても
そうなるしかなかった。
それがどうしようもなくかわいく見える。
「未完成を愛でる感性」
面白さを説明しようとすればするほど、
どこから話せばいいのかわからなくなることがある。
情報を削れば削るほど、
いちばん伝えたい部分が抜け落ちていく。
その途中で、
これは共有される前提の感性じゃないのだと気づく。
なぜこのようなことが起きるのか。
なぜ同士が生まれないのか
それは、この感性が
説明されることを前提にしていないからだ。
未完成を愛でるというのは、
何かが足りなかったという話ではない。
可能性が閉じていく過程を、
構造としてそのまま受け取るということだ。
そこには「ここが良いポイントです」と
指差せる部分がない。
あるのは、逃げ場のなさと、
それでも正しかった判断の積み重ねだけ。
だから説明しようとすればするほど、
本質から遠ざかってしまう。
この感性は、
同意されることで完成しない。
ただ、同じところで立ち止まった誰かが、
「ああ」と思うだけでいい。
同士がいないというよりも、
同時に立ち止まる人が、ほとんどいないだけだ。
だから、私は自家栽培をする
そして、この感性は、一人では完結しない。
誰か(あるいは何か)との対話があって、
はじめて輪郭を持つ。
だから同士がいない代わりに、
ひたすら自家栽培することになる。
同士が欲しくて始めた趣味で、
同士がいない、という結論に出会ってしまった。
それでも。
同士のいない世界の中で、
私は前へ進んでいる。
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