以前、こんなnoteを書いた。

この中で、「キャラが勝手に動く」という感覚について書いた。
実際に物語を書いていると、想定していなかった方向に会話が転がったり、本来の流れから逸れていくこともある。
この「逸脱」をどう扱うかは、人によって大きく違う。
ある人は、それをそのまま通さずに修正する。
テーマやプロットに照らして、「許容できるかどうか」で判断する。

ふくむろ様のこちらのnoteでは、「吸血鬼と人間の共存」というテーマが先に置かれていて、著者はそこから外れる展開は削除して作っていると書かれていた。
つまり、テーマを軸にして、物語全体の整合性を守るやり方だ。
これはとても合理的だと思う。
テーマを固定した時点で、物語の許容範囲は決まる。
そこから外れたキャラの動きは、たとえ面白くても採用できない。
一方で、自分は少し違うやり方をしている。
最初にあるのはテーマではなく、関係性だ。
こういう関係を成立させたい、という前提だけを置いて、あとはキャラを動かしていく。
すると、その関係性を成立させるために、設定や因果が勝手に組み上がっていく。
この段階では、テーマはまだない。
ただ、回し続けていると、どこかで全体が収束する瞬間が来る。
そのとき初めて、「あ、この話はこういう構造だったのか」と理解する。
つまり、テーマは最初から決まっているものではなく、後から浮かび上がってくるものになる。
この違いは大きい。
テーマを先に置くやり方は「上から制御」する構造で、関係性から回すやり方は「下から収束」する構造になる。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、同じ「キャラが勝手に動く」という現象でも、その扱い方によって、全く違う物語になる。
自分の場合は、関係性の実験をしている感覚に近い。
たとえば、今書いている『ラクリマ・ディアの連結子』では、成立しない関係を置いて、それでも成立しようとする動きを観察している。
その過程で生まれた歪みや因果が、結果として一つの構造を持ち始める。
そして最終的には、個別の出来事ではなく、パターンとして読めるようになる。
繰り返し可能な構造として立ち上がる。
そして構造を分解していくと、物語というより神話に近くなっている。
意図して作るというより、回した結果としてそうなっている。
同じように「キャラが勝手に動く」と感じている人でも、それを制御するか、回し切るかで、出来上がるものはまったく別のものになる。
物語として整えられるか、あるいは神話のように立ち上がるか。
違いは、その「逸脱」をどこで止めるかにある。
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